映画時代

寺田寅彦

映画時代書籍情報

底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:野村裕介
校正:浜野 智

映画時代 4

寺田寅彦

パラマウント・ニュースのようなものの組み合わせは場合によっては、偶然ではあるが、前述の連句的の効果を持ちうる。近ごろ朝日グラフで、街頭のスケッチを組み合わせたページが出るが、ああいうものを巧みに取り合わせて「連句」にすることもできる。
 器械の活動美を取り入れたフィルムもあるが、やはりこしらえものは実に空疎でおもしろくない。たとえば「メトロポリス」に現われる器械などは幼稚で愚鈍で、無意味というよりは不愉快である。これに反して平凡な工場のリアルな器械の映画には実物を見るとはまたちがった深い味がある。見なれた平凡な器械でも適当に映出されるとそれが別な存在として現われ、実物では見のがしている内容が目に飛び込んで来るのである。
 実物と同じに見せるということは絵画の目的でないと同様に映画の目的でもない。実物を見たのでは到底発見することのできないものを発見させるところに映画の特長があるのではないか。たとえばわれわれが自身でライオン狩りの現場に臨んだとしたら、どうして草原のそよぎなどを味わうことができるであろうか。殺されて行く獅子(しし)を哀れむ心を生じるだけの余裕があるであろうか。「なんの権利があって人間はこの自由な野の住民を殺戮(さつりく)するだろう」たとえばそんな疑いを起こすだけの離れた立場に身を置きうるであろうか。
 映画に下手(へた)な天然色を出そうとする試みなども愚かなことのように思われる。そうして芝居の複製に過ぎないようなトーキーもやはり失敗であるとしか思われない。言うまでもなく独立な芸術としての有声映画の目的は、やはり他にすでにあるものの複製ではなくて、むしろ現実にはないものを創造するのでなければなるまい。おりおり余興に見せられる発声漫画などはこの意味ではたしかに一つの芸術である。品(ひん)は悪いが一つの新しい世界を創造している。これに反して環(たまき)夫人の独唱のごときは、ただきわめて不愉快なる現実の暴露に過ぎない。
 絵画が写実から印象へ、印象から表現へ、また分離と構成へ進んだように映画も同じような道をすすむのではないか。そうして最後に生き残る本然の要素は結局自分の子供のころの田舎(いなか)の原始的な影法師に似たものになるのではないか。