寺田寅彦
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:野村裕介
校正:浜野 智
寺田寅彦
鳶(とび)の羽も刷(かいつくろ)いぬはつしぐれ
一ふき風の木の葉しずまる
股引(ももひき)の朝からぬるる川こえて
たぬきをおどす篠張(しのはり)の弓
のような各場面から始まって
うき人を枳殻籬(きこくがき)よりくぐらせん
今や別れの刀さし出す
せわしげに櫛(くし)で頭(かしら)をかきちらし
おもい切ったる死にぐるい見よ
の次に去来(きょらい)の傑作
青天に有明月(ありあけづき)の朝ぼらけ
が来る。ここに来ると自分はどういうものかきっと、ドストエフスキーの「イディオット」の死刑場へ引かれる途上の光景を思い出すのである。これらのシーンの推移のテンポは緩急自在で、実に目にも止まらぬような機微なものがある。試みにこの一巻を取ってこれを如実に表現すべき映画を作ることができたとしたら、かの「ベルリーン」のごときものは実に幼稚な子供の片言に過ぎないものになるであろう。
しかし、話の筋が通らなくては物足りないという観客が多数にあるかもしれない。それならばかつて漱石(そうせき)虚子(きょし)によって試みられた「俳体詩」のようなものを作れば作れなくはない。
ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。この事を多くの観客は自覚しないで、そうしてただつまらない話のつながりをたどることの興味に浸っているように思っているのではあるまいか。アメリカ喜劇のナンセンスが大衆に受ける一つの理由は、つまりここにあるのではないか、有名な小説や劇を仕組んだものが案外に失敗しがちな理由も一つはここにあるのではないかという気がする。
連句には普通の言葉で言い現わせるような筋は通っていないが、音楽的にちゃんと筋道が通っており、三十六句は渾然(こんぜん)たる楽章を成している。そういう意味での筋の通った連句的な映画を見せてくれる人はないものかと思うのである。